大人雑談掲示板

Re: 日本の発明品と縄文文明 ( No.11 )
日時: 2023/10/07 19:01
名前: メテオール (ID: YOiERuKP)

【日本の発明品と縄文文明】
1:日本の発明品の話
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

1‐4:日本の発明品の話《お茶の起源》
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
あるサイトより。
『海外「あんな小さな国なのに…」 国際機関選出 世界を変えた日本の発明5選』
ここでは見解に挙げられていない、他に見つけた日本の発明品を考察していきます。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
お茶は発明と呼ぶべきものか?
《煎茶》《玉露》《麦茶》《ほうじ茶》《昆布茶》《玄米茶》
これらは完全に日本独自のお茶となります。
どれも健康的ですね。

《抹茶》
『日本発で世界的に知られるようになっており、欧米など海外でも日本語の発音を写した「Matcha」と呼ばれることが多い。『ウィキペディア(Wikipedia)』』
とされている。

日本の地域限定のお茶を入れますと、数が多すぎてキリが無いので割愛させて頂きます。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
興味深い話を見つけましたので、文面をそのまま掲載させて頂きます。
注口土器を見たところ、縄文時代から既にお茶を飲んでいたのではないかと、思っていたりはします。
(あの形状にして、飲まない訳がない。)

勿論、薬草だって作っていたかもしれないし、それを調合していたかもしれない。
(縄文時代は、約16500年前から始まっていたのですから、本来ならそれくらいは妥当かと。)
温泉も豊かに存在しますし。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【前編】《或るサイトによる引用です》
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
『お茶は弥生時代から飲まれていた!』
ただし、現在のお茶の葉ではなかった。
栄西が喫茶習慣を広めたというウソ!

お茶の起源について、通説では
「栄西が唐からお茶の木を持ち帰って、それまでは無かった喫茶習慣を全国に広めた」
とされていますが、果たして本当にそうでしょうか?
『ウエツフミ』から重要な記述が出てきました。

私は以前、小野薬品さんの仕事で「お茶の起源」を調べたことがあります。
その結果は以下の通りでした。
◆臨済宗の開祖である栄西は、唐から持ち帰ったお茶を「珍しいもの」として時の将軍・源実朝に献上したが、当時はあくまでも貴重な嗜好品であり、庶民に広まるのは後代のことである。
◆栄西は、それまで存在していた日本独自の茶葉のメニューに、中国産のお茶を付け加えただけである。
◆栄西はその著書『喫茶養生記』のなかで、「桑の葉の効用」についても力説しており、お茶の葉だけに固執していた訳ではない。
つまり日本古来の「桑の葉茶」も推奨していた。
◆民間伝承として「昔から日本人は山の木の葉をお茶にして飲んでいた」という言い伝えが各地に存在するが、その決定的な証拠となる文献は見つからなかった。
ところが『ウエツフミ』を読んでいるうちに、その決定的な証拠が出てきました。
結論から先にいいますと、
◆ニニギの命の時代に (私の推定では紀元前7世紀の弥生時代初期)、
◆マサカヤマツミの命という人が、ニニギの命の健康と長寿を願って
◆クワ木、クコ木、ウコギ、サキギ、ホキギ
の5種類の木の葉から作ったお茶を献上した。
と、書かれているのです。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
《ウエツフミに書かれたお茶の起源》
マサカヤマカツ(正鹿山津見)の命は、ニニギの命がさらに長生きして欲しいと願い(当時の天皇は寿命300歳くらいが普通)、クワ木、クコ木、ウコギ、サキギ、ホキギの5種類のお茶を献上します。
その瑞々しい若葉を摘んで、釜を(水を入れず)空焚きに焼いて、若葉を焦がし枯らして、ヒキリ臼で細かい粉にし、天の遣り水をカンカンに沸かして柔らかくし、その粉に注いで「木葉粉湯」とし、朝の食事の禮口(いやくち=口を浄化するの意味か?)夜の食事の禮口に、飲み物の代わりと定めて、天皇の御膳の添えものとして献上しました。

つまり、現在のお茶を作る製造方法、お茶を飲む作法と全く同じなのですが、使われていた葉っぱが違っていたということです。
さらに、「禮口(いやくち)」という表現で、お茶に含まれるポリフェノールの抗酸化作用まで知っていたということになります。
最も注目なのは、この『ウエツフミ』が書かれたのが1223年、
『喫茶養生記』が書かれたのが1214年と言われていますから、栄西が中国のお茶を広めようとした頃には、既に日本のお茶が存在していたことになります。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□