彼の声が落ちるたび、胸の奥のどこかが静かに波打った。
緊張はまだ残っているのに、不思議とその響きが心をほどいていく。
名を尋ねられて、ほんの一拍、迷ってから唇を開く。
「……リンデン。リンデンとお呼びくださいませ。……ジーク様。」
その名を口にした瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
第一皇子であらせられる方を、こうして名で呼ぶなど――本来、許されぬことのはず。
けれど、あまりに謙り過ぎるのも、かえって無作法に映るのではないかと思う。
わたくしは“市民”ではない。
その境の上で、ただ慎ましく、正しく在ることを心に定めた。
そうして再び声を発したとき、自分でも驚くほど、その響きは静かに整っていた。
思いがけないお誘いに、胸の奥がふっと熱を帯びる。
気づけば、視線が自然と輝きを宿していた。
本でしか知らなかった遠い国の花。
夜の帳が降りる頃、その香りをいっそう甘美にするという――魅惑の夜来香。
まさか自らの目で、それを見られる日が来るとは思いもしなかった。
もちろん、すぐにでもお誘いを受けるつもりだった。
けれど、足を止めた先に目的地が見えた瞬間、思わず口を閉ざす。
薬品の香りが漂う静かな室内。
ベッドの縁へとそっと下ろされると、ジーク様はまるで勝手知ったる自室のように、
必要なものを迷いなく手に取っていく。
その後ろ姿を、ただ見つめてしまっていたことに気づき、慌てて口を開いた。
「ジーク様。先ほどの夜来香のお話……本での知識はございますが、実際に見たことはありませんの。
夜になればさらに強く香るそうで……とても気になってしまいますわ。」
言い終えるのと、彼が膝をつくのと、どちらが早かっただろう。
恐れ多さを感じるよりも早く、濡らした布が傷口を掠めた。
ひやりとした感触が肌を撫で、次いで、微かな痛みが遅れて訪れる。
思わず肩が揺れた。
次第に痛みが静まっていくのを感じながら、その指先を見つめる。
無駄のない所作、迷いのない動き。
まるで、何度も人の傷に触れてきた者の手のように――。
(……皇子でいらっしゃるのに。)
胸の内でそう呟いた。
本来ならば護られる側の方。それなのに、その手には熟練の医師のような確かさがある。
ガーゼを当てる角度も、圧の加減も、すべてが的確。
そこにあるのは気まぐれな優しさではなく、経験に裏打ちされた確かな手つき。
どうして――と問いかけたくなる気持ちが溢れそうになる瞬間、彼の穏やかな声が落ちた。
その心地よい声音に耳を傾けているうちに、手当てが終わる。
顔を上げた彼の瞳は、柔らかな光を湛えながらも、どこかに決意の色を宿していた。
背後から差し込む夕陽がその姿を包み込み、跪く様はまるで御伽話に登場する勇敢な騎士のようだった。
「……まるで騎士様のようですわ。ふふ、ありがとう。」
頬が自然と緩む。そんな感覚は、一体いつぶりだっただろう。
「それでは――甘美な匂いの花まで、エスコートしていただけますか?」
沈みゆく陽に照らされた皇子へと、ゆっくりと手を差し伸べた。