皇子が私の手を取った。
その指先がそっと手の甲に触れ、柔らかな唇がそこに触れる。
あまりにも自然で、ためらいのない動きだった。
まるで何度もそうしてきたかのような、淀みのない仕草。
私は抵抗することも忘れ、ただその光景を見つめていた。
夕暮れの光が、二人の間を淡く染め上げる。
「――あなただけの守護騎士に」
甘く響いたその言葉は、風のように優しく、どこか儚かった。
けれど、それが本心であるはずもない。
皇子の公務は、私には計り知れぬほど数多の微笑みと駆け引きの場に満ちているのだろう。
その中のひとつとして、私への言葉もまた、儀礼のひとつに過ぎぬのかもしれない。
そう思いながらも、唇が触れた場所の微かな熱が頬にまで広がる。
第一皇子が、そう簡単に時間を割けるはずもない。
当然のこととは分かっていても、夜来香の花を共に眺められなかったことが、ほんの少しだけ胸に残った。
代わりに、皇子の手からそっと渡されたものがある。
指先に触れた一枚――それを“名刺”と軽々しく呼ぶことさえ許されぬ、重くつるりとした材質。
約束と呼ぶには、あまりにも深い意味を孕んでいるように思えた。
「こ、このような物……わたくしには、あまりにも…!」
慌てて返そうとしたが、皇子の桃色の瞳と目が合い、言葉を飲み込む。
その眼差しの前では、どんな言葉も意味を失う。
きっと彼は、私に返させはしないのだろう。
胸の内で幾度も言葉を選び、考えに考えた末に、静かに唇を開いた。
「……ありがたく、頂戴いたします」
言葉が空気に溶けていくのを見届けながら、そっとその一枚を誰の目にも触れぬよう懐へ忍ばせる。
――住まい、帰る場所。
皇子がそう言ったとき、浮かんだのは格子の間から日が漏れる小さな部屋。
軋む床板、乾ききったパン、折られる枝の音。
それが、私の「帰る場所」
胸の奥にひやりとした空洞が広がる。
私はそっと裾を握り、皇子に顔を向けた。
「……もう少しだけ、外の空気を吸っていたいのです」
曇った感情を悟られぬよう、微笑みを添える。
「せっかくのご提案はお断りいたしますわ。
お気遣い頂き、ありがとうございます」
差し伸ばされた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
足の怪我は手当が良かったのか、痛みをまったく感じない。
歩いて帰るのには、全く問題ないだろう。