大人オリジナル小説

Re: 沈黙の後より -after episode- ( No.2 )
日時: 2012/11/10 19:51
名前: 世界 ◆hdwFu0Q9Eg

  (1) 無音からの騒乱  


 大変なことになった――。そう彼が聞かされた時間は、まだ夜も明けきらない早朝のことだった。
 振動の鳴り止まないマナーモードの携帯電話はしつこく、意識を朦朧とさせる彼をしばらく責め立てていた。昨晩も結局、片付けきらなかった仕事の大半を気合いで終わらせ、疲れ果てた状態で夕飯も食べることなくベッドへと身を投げ出した。とにかくこの時期は忙しかった。中学の教師という昔からの夢であった職業に就けたことに不満はなかったが、ここ最近はより仕事も増えて忙しくなっている。丁度、中間役職のような立場なのだが、おそらくこの立場が一番大変なのだろう。
 2LDKのそう広くはない部屋は、彼一人が住むにはそう不便はなかったが、それでも無理やりたたき起こされた状態では、もはや数歩、部屋の中を移動するだけでも億劫であった。振動音はどこから響いているのかと昨晩の記憶をたぐり寄せながら、ベッドからようやく身体を起こし、目を開けずにベッド脇の電灯のスイッチを付けた。
 薄暗く照らされる室内。ベッド脇の小さな机の上には、昨晩、答え合わせを終えたテスト問題の用紙と通勤用の鞄。そこに携帯電話もあった。折りたたみ式の古い、お気に入りのものだ。今時はこの形は古いと言われるが、それでも彼には慣れ親しんだ形であり、まして不便ということもなかった。
 だが、それはプライベート用のものだ。今、おそらく鳴り響いているであろう学校から支給された携帯電話ではない。触れるまでもなく、彼を呼んでいるのはそれでは無いということがわかった。
 ふと、考えが頭をよぎる。こんな夜中にわざわざ仕事用の電話に連絡をしてくるとは、よっぽどのことだ。まさか、仕事のミスか? そんな緊急にまで呼び出しをかけるような重要な仕事は……失敗したような覚えはない。
 だが万が一を考えると、冷や汗がどっと吹き出してきた。急いで部屋の中を見渡し、ようやく、玄関先の靴箱の上に、点滅するそれを発見する。慌てて駆け寄り、画面を見るまでもなく急いで応答する。

「はい、観岸です」
「観岸先生、大変なことになりました」
「えっ?」

 あまり聞き慣れない男の声に一瞬、観岸は戸惑った。同僚でも、仲の良い教師でもない。耳から携帯電話を離して画面を確認すると、そこには生徒主任である寺司の名前があった。

「寺司主任、こんな夜中にどうしましたか? 大変なこととは……?」
「状況がまとまっていないので詳しくは述べられませんが、簡単に言いますと……生徒がひとり、自殺しました」
「なっ――」

 観岸は耳を疑い、もう一度、耳から携帯電話を遠ざけた。確かに寺司の名前がそこにはある。声も間違いなくその人だ。いたずら電話や、どっきりのような類いではない。
 頭の中で、いろいろな生徒の名前が交錯して止まらなくなる。

「だ、誰です? 島地ですか? 山口? 中? 内柳……いや、彼に限ってそれはないか……だったら……」
「お、落ち着いてください。あなたのクラスではありませんよ」

 そうか……。いや、何も落ち着けるわけはなかった。自分のクラスの生徒でなかったことは確かに観岸にとっては少しだけ胸をなで下ろすことだったが、こうして緊急に、三年生の主任を受け持つ観岸に連絡が行く以上、おそらく学年の誰かであるのは、間違いなかった。

「……それで、誰なんですか?」
「二組の、木条です」

 木条……木条 悠斗だ。2年のときに、担任として受け持ったことのある生徒だ、なじみも深い。今年は違うクラスだったが……。問題もなく、いたって普通……普通すぎる子だったと言えるかもしれない。成績も中盤ほどで、さして運動神経が悪くもなく、少し面倒くさがりだが真面目なところもあり、友達も並にいたと記憶する。
 それが……自殺したというのか。わずか15歳で自殺に走った? 観岸の中では、到底考えられないことだった。

「ど……どうすればいいですか?」
「早朝から警察の現場検証があります。観岸先生も、出来るだけ早くこちらへ来て下さるとありがたいです。学校は臨時休校とするので、連絡網を回す必要もありますから」
「わかりました、すぐに向かいます。……あの」
「どうしました?」
「なぜ木条は自殺を?」
「……わかりませんね」

 それ以上の言葉を、寺司から聞くことはなかった。生徒主任とはいえ、寺司がすべての生徒の状況を把握しているかといえばそうではないし、ましてや顔すら覚えているかどうかも怪しい。仕方の無いことで責められないが、どこかよそよそしいその態度からは危機感というものが感じられなかった。
 観岸は電話を切り――それから学校に着くまで、自分がどういった行動をしたのか、後から思い出すことが難しかった。とにかく一刻も早く、学校に着くことだけを考えた。
 午前六時前。観岸は数十キロ車を運転して中学校の正門へと近づいていた。同時、すでにそこが異様な雰囲気にあることがはっきりとわかった。正門には大きなカメラを持った、マスコミと思われる人間が何人も迫っており、彼らが校内へと立ち入るのを警察官数人が妨げている。その様子を遠巻きに、通りかかった一般人が眺めていた。この様子を見ると、木条が自殺をしたのは、校内なのだろうか……。あるいは、すでに情報が回っていて、すでにそれをかぎつけてきたのか……。
 正門に車を近づけると、警察官に阻まれる。同時に、見覚えのある顔の、警察官と一緒にいた少し年老いた学校管理人が近寄ってきた。

「おはようございます、観岸先生……申し訳ありませんが、教職員身分証明書の提示をお願いします。警察の方が、関係者以外の立ち入りを制限しているので」

 言われて、財布から証明書を取り出して警察官に提示すると、ちょっとお借りしますと言って、正門付近の校内に止めてあったパトカーの中へと入っていった。その間、管理人に指示されて、車のウィンドウを閉めて待機する。……なるほど、ここぞとばかりにマスコミが大声を出しながら、車の周りを取り囲もうとしていた。べたべたと窓ガラスを触ることに苛立ちを覚えたが、とにかく今は無視しなければならない。巧みに誘導されたりして、下手なことを言うわけにはいかなかった。
 警察官が戻ってきて、身分証を返却してもらうと同時、再び警察官がマスコミを押し下げて道を作ってくれた。観岸が軽く頭を下げると、警察官は満面の笑みを返してきた。状況を知らないのだろうか……とても複雑な気分になる。
 車を定位置に止めて、少し離れた職員室まで急ぎ足で進む。途中、見慣れない黄色いテープが張られて通れないところもあり、少し迂回する必要があった。とても嫌な想像が頭を巡り、観岸の足は自然と早くなっていく。
 職員室への廊下の角を曲がる。そこで見知った男の姿を見つける。
 
「――おう、観岸」
「東、状況は……」

 職員室の前で佇んでいた東は、早足で近寄りながら声をあげる観岸を、口元の濃いひげをもぞもぞとさせながら、小さく指を立てて制した。そして職員室の中を指差して、両手で罰印を作る。

「……丁度、警察の人が中で事情を聞いているところだ。今は、俺たちは会議室の方でほとんど待機だと」
「そうか。……何か分かったことはあるか?」
「どこまでお前が知ってるのかわからないが、木条は頭を強く打ってほぼ即死だったらしい。飛び降りたのはこの特別校舎の四階で、ほら例の……老朽化で柵が外されていた場所だ。んで、警察は自殺の原因を探っていて、暫定的には原因を虐めによるものだと確定しそうだ」
「虐め……か」

 観岸の脳裏に、木条の姿がよぎる。少なくとも自分が知っている彼は、そういったことをされるような子ではない。その様子も見当たらなかった。新年度に入ってから三ヶ月ほど経つが、その間に、そういった可能性が無いわけではないが……。
 東は、観岸を会議室へと誘導した。会議室の中には、他にも同じ教職員が待機しており、それぞれが暗い面持ちで小さく会話をしたり、携帯電話で遠慮がちに会話をしていた。

「お前も、後で警察の人に事情を聞かれるだろう。悪いが、対応を頼む」
「俺も?」
「学年主任だし、二年前は木条の担任でもあったからな。仕方ない……」

 そう気に病むな、と東は観岸の肩を叩いた。本当のところ、東の心も重たく、気を抜けば押しつぶれてしまいそうなほどに不安であったが、ここは率先して観岸の支えにならなければいけない……。それだけが、逆に東の心の芯を支えていた。
 観岸は、とにかく状況を掴もうと、東に質問を投げかけようとした。それと同時に、会議室の扉が開いて、寺司が顔を見せる。

「観岸先生、おいでになりましたか。警察の方が少し、話をしたいと」

 そう述べた寺司の表情は、普段にもまして硬く、また声もとげとげしいものがあった。