大人オリジナル小説

あのバーには死神がいるらしい
日時: 2023/01/27 14:54
名前: 夢野枕

※ 不定期投稿

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                 一人目
 

 死にたい。決意したのは昨日。仕事で上司に散々パワハラを受け、今日も帰宅しようと思っていた時だ。
地下鉄のホームには高校生や会社員、その誰もが自ら死のうなどと考えたことは一度もないのだろう。俺が腰掛けたベンチの横に座り込んできたのは、女子高校生三人組だった。何やらスマホを見ながら大声で騒いでいる。仕事終わりの耳にはとても耳障りだった。
 「おい、おっさん。何見てんだよ。」
突然、三人組のうちの一人がこちらを向き、話しかけてきた。でも、その表情から決してそれはいい内容ではなさそうだった。何か気に触ることでもしたか心当たりがないので、聞き返したところ、勢いよく立ち上がって大きな声で回りに向かって叫び始めた。
 「みなさ〜ん!私、痴漢されました!」
え、そう思った時にはもう遅かった。女子高生の指の先は俺を向いていた。さっきまで俺のことを見向きもしていなかった周りの人々が一斉に俺の方を向く。誤解だ、そう弁明しようとベンチから腰を浮かせようとしたが、俺を見る周りのその目にそんな気持ちは殺された。
 「ねぇ、おじさんさぁ、捕まりたくないでしょ?」
わざとらしく、ぼそっと呟かれた言葉。顔をそちらに向けると、女子高生は手を差し伸べていた。救いの手か。いや、そんな優しいものじゃないことは知っている。ベンチに座る俺を上から見下す。腐った色をした目。
 「早く財布出せよ。」
小さく低い声で、脅すように言われた。標的に襲われた獲物のように身体が収縮したのが分かった。会社員の男たちが騒ぎを聞きつけて歩いてこちらに向かってくる。早くなんとかしなければ。
 「…こ、これで許してください…」
俺は財布に入っていた2万円をつかんで渡した。女子高生は俺のことを見ると、鼻で笑った。その後、ホームに向かって再び叫んだ。
 「すみません!なんか私の勘違いだったみたいです〜!」
こちらに向かってきていたサラリーマンたちが「なんなんだよ」と言いながら戻っていく。三人は、ケタケタと笑いながら、俺のことを笑ってくる。こんなことになる前は一切感じなかった視線が、今は刺さるように痛い。
俺は、ベンチに座ったまま顔を上げられなかった。
 『まもなく〜4番線に電車が参ります危ないですから〜黄色の線より内側にお下がりください〜』
アナウンスがホームに響き、真っ暗な闇に、電車のライトが光り出す。ブレーキ音が耳に聞こえてくる。
止まった電車に、ゾロゾロと人々は乗り込んでいく。何人かの人は、俺の前を通る時に、気持ち悪、と呟いたのが聞こえた。
終電の電車が去ったホームで、俺は一人ベンチに頭を抱え座り込んだままだった。気づけば言葉が俺の口からこぼれ出ていた。

              「死にてぇ…」

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カランカラン、とドアの鈴が鳴る。路地裏で見つけた小さなバー。ひっそりとしたところに静かな淡い赤色の壁の色が映える。店の中はありきたりなバーと変わらず、カウンターが5席とテーブル席が2席あった。店にはゆったりとしたワルツが流れていた。
 「おや?お客さんですか。」
カウンターの向こう、グラスを拭いていたマスターが顔を上げた。見た目は、五十代くらいだろうか。少し白髪が目立つ髪に、紳士的な服装と髭が生える。少し背高なその男性は俺に、カウンター席を勧めてきた。
俺が座ると、マスターは一杯のグラスとボトルを出してきた。
 「こちらは、フランスのバンドールで作られたキュベ・インディアデュペレ・バレラでございます。」
ワインに関しては全く知識のない俺だが、深い味わいを感じ取れた。
 「お客さん、よくここを見つけられましたね。」
確かに、俺以外に客はいなかった。
 「まぁ…たまたま路地に入ったらあったもので…」
 「そうですか…」
マスターは俺の眼を見ながらそういうと、先ほどと同じようにグラスを拭き始めた。
言葉のない時間。ワルツが静かに流れる店の中は、二人の人間の命以外、何もなかった。
飲んだグラスをテーブルに置くと、俺はマスターに尋ねた。
 「あの…このお店で一番のワインってありますか…?」
マスターはありますよ、と答えると手にしていたグラスを置き、店の奥へと入っていった。しばらくすると、一本のワインを手にして戻ってきた。
 「シャトー・ディケム、というワインです。こちらは1975年ものとなっており、世界に1000本しかないうちの一本になります。」
そう言って出されたグラスには、淡い黄色味のあるワインが注がれていた。
一口飲むと、先ほどのワインとはまた違う深みがあった。だが、何度も言うがワインに関しての知識は皆無なので、これが美味しいのかどうかはわからない。 
 「失礼ですがお客さん、あまりワインを嗜んだことがなさそうに見えますが、そちらのワインはお気に召されましたでしょうか?」
どうやらマスターに見透かされていたようだ。
 「あ…わかっちゃうんですね…すみません、ワインとかに関しては全くわからなくて…」
そういうとマスターはフッと微笑んだ。
 「味わいが分からずとも、ワインにはその深みを感じさせる何かがあります。そう…例えばあなたの人生のような…」
人生…俺はその言葉を胸の内で反響させた。俺の人生に果たしてこのワインのように深い味はあるのだろうか。マスターはまたグラスを拭き始めると、手元に視線をやったままこう言ってきた。
 「今日はどうやって死ぬおつもりなんですか?」
俺は背筋に針を刺されたような感覚を感じた。手に持っていたグラスを危なく落とすところだった。
 「な…何を言って………いや、なんでそれを…」
俺が動揺する姿を見たマスターは店の入り口に目をやると、微笑みながらこう言った。
 「この店は、少々特殊な店でして…《自殺願望》のある方々しか辿り着けないようになっているんですよ。そう…例えばあなたのような方でないとね。」
俺には現実味が湧かなかった。そんな嘘みたいな店が本当にあるんだ、そう思った。
 「…なら、マスターは俺が死のうとしていることを知っていたんですか…?」
 「…はい、もちろん、存じ上げておりますよ。あなたが…店に入ってきた時から。」
マスターに若干の恐怖心を覚えたが、それと同時に全部見透かされていた俺の間抜けさに苦笑いした。俺はこの人になら全部を話してもいいんじゃないか、そういう気分になった。
 「あの…俺の話…聞いてもらえますか?」
するとマスターはワインボトルを手にして、もう一つグラスを出してきた。そして手にしたワインを俺のグラスと、もう一つのグラスに先ほどのワインを注いだ。
 「どうぞ、お話しください。もとよりそのつもりですから。そのための最高級のワインですから。」
そういうとマスターはグラスを手にし、ワインを飲み始めた。気さくなマスターに安心して、俺も一口、喉を通した。


俺は中小企業の会社に勤めていた。会社では、さまざまな文具や、アイテムを出荷していた。いいアイディアを出せる有能なやつはどんどんと上に上がっていき、俺のように大した物を生み出せない奴らはどんどん切り捨てられる、そんな会社だった。毎日毎日、上司に腹を殴られ、靴を咥えさせられ、裸にさせられ、半ば拷問のような行為を受けた日もあった。独身で独り身の俺には滅多に休みも与えられず、頻繁にデスクの前で一夜を明かした。
俺には大した生きがいもなく、夢や目標の一つもなかった。小さい頃に憧れていたものは、大人になった今ではなんだったかなど思い出せやしない。そんな俺は、自分が生きていく意味なんてこの世にあるのかがわからなくなっていた。
何かがうまくいった覚えなどない。幼い頃に両親が離婚して、祖母の家に預けられたあの日から、俺には縋るものも無くなった。

何も持っていない俺。そんな俺が死んでも誰も困らないだろう。そう思うと、そろそろ楽になりたいような気がしてきた。
俺が話している間、マスターはずっと俺の話に頷きながら聞いてくれた。
 「では、どのように死のうと思っているのですか?」
一通り話し終わるとそう尋ねてきた。普通ではない質問だったが、俺はマスターにすっかり心を許してしまっていた。なぜかは自分でもよく分からない。マスターの不思議な雰囲気だろうか。それともただ単純に俺が誰かと話したいだけなのか。
 「…私は…どうやったら楽に死ねるのでしょうでしょうか…」
俺は俯きながらグラスに目をやった。話している間に飲み干したグラスは、その側面にうっすらと俺の顔を映し出していた。
 「…そうですね…あなたのような方ですと、首吊りか、電車に飛び込みが多いですが…まぁ、今回の場合は自殺を思い立ったのが駅のホームということもありますので、未練を残さぬためにも飛び込みの方がいいでしょう。」
マスターは淡々と俺に告げてきた。俺は俯きながら、自分に言い聞かせるように頷いた。その時、マスターがポンッと手を打った。
 「あ、そういえば言い忘れてましたが、お客さんは新規の方なので一回無料で体験ができますがどういたしますか?」
マスターが微笑みながらそう言ってきた。初めは何を言っているか分からなかったが、そもそもこのバー自体が異質なのである。今更何があろうと大したことではない。
 「“体験”、というのはどういうことでしょうか…」
 「それはですね…まぁ、簡単に言いますと死を体感できるわけです。」
マスターは、俺の前に置いてあったグラスに、一本のワインを注いだ。どこからかいつの間に持ってきたワインだったが、素人の俺でもわかるくらい、異様な感じがするものだった。
 「…どうぞ、こちらのワインをお飲みください。こちらを飲まれますと一旦意識が飛んだ後に、死を疑似体験することができます。まぁ、口で説明するよりも体験していただいた方がいいですから。百聞は一見にしかず、ですので。」
俺は目の前に出されたワインに妙な好奇心が湧いてきて、躊躇するでもなく、口元に運んだ。喉を鳴らしてワインを体に流す。先ほどまでのものとは違う、なんともいえぬ気持ち悪さと、言葉では表せない快感が体に走った。
次の瞬間、俺は視界が回ったように見え、そのまま倒れた。


 『まもなく〜4番線に電車が参ります〜危ないですから〜黄色の線より内側にお下がりください〜』
目を開けた時、そこは見覚えのある景色だった。
 「ここは…駅…のホームだ。」
周りを見渡すが、いつもの通勤と大して変わることがない風景で、俺はどこか既視感を覚えた。そしてそれと同時に、マスターの言葉を思い出した。死を体験する。つまりそれは、今ここで飛び込みを体感できるってことだろう。
俺は一歩前に足を出し、黄色の線に踵を合わせる。
後ろにいたサラリーマンの男の人から、「何してんだコイツ、邪魔くせぇ」と、そう聞こえた。でも俺はどうでもよかった。今ここで飛び込む、ただそれだけ。死のうと思った身でも、足がすくんだ。
 「大丈夫、大丈夫。俺は生きてても価値がないんだ。だから死ぬんだ。自由になるんだ。大丈夫。」
震える足を落ち着かせようと自分に暗示をかける。
暗闇に電車のライトが光り出す。電車のブレーキ音が聞こえてくる。
俺は右足の爪先を空中に出し、体の力を抜く。電車が視界の端に見えた瞬間、左足で思いっきり体を前に押し出した。
体に強い衝撃が走ったのと同時に世界がゆっくりと動き出した。内臓から痛みが走る。しかしそれも一瞬で、すぐに痛みは無くなった。自分の体が形を失ったのがよく分かった。空に舞う自分の血が鮮やかな朱色をしていて、景色が俺の色で染まっていくのが目に見えた。その後すぐに視界は暗闇へと変わり、音も遠ざかっていった。だんだんと意識がなくなっていく中で、俺は思った。
死ぬってこんなに簡単で、怖いんだな。
俺は、死んだ。


再び意識を取り戻した時、そこはバーのカウンターだった。
 「おや、もう戻っていらしたんですか。早いお方ですね。普通は二本ほど電車を見過ごしたりするものですが。」
マスターはまたグラスを拭いていた。
 「いかがでしたか?死ぬことは。」
俺は気付かぬうちに額にまとわりついていた汗を拭いながら答えた。
 「…簡単でした…死ぬことは。…でも、怖かったです。すごく…」
マスターはその言葉を聞いてどう思ったのかは知らないが、少し微笑んだかに見えると、また新しいワインのボトルを出してきた。
 「こちらをお飲みください。あなた様専用の、特注品になります。」
そう言ってグラスに注がれたワインは、透明に近い色合いのものだった。
もはや何がどうなっているのかも考えられなかったが、俺は少し躊躇した。
 「…このワインは、俺専用、なんですか…?」
マスターの言った一言に疑問符を投げかけると、マスターは優しく頷いた。
 「…これは、普通のワイン、ですよね?」
マスターは、相変わらずグラスを拭き続けている。だが、目線を合わせることなく頷いた。
俺は恐る恐るとしながら、口にワインを運んだ。
一口飲んだ瞬間に感じたものは、先ほどのものとはまるで真逆だった。
甘いような味がして、とても優しい感じがする。胸の奥から何かが出てこようとしていた。
俺はなんだか唐突に耐え難いほどの眠気に襲われ、グラスを手に持ったままゆっくりと瞼を下ろした。

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