思い付きかつ勢い。一応ぼくあかっぽいです。監督捏造。
特に感慨だとか、そういうものはなかった。
コートにボールが叩きつけられて、誰にも触れられることのなかったそれは、てんてんと視界の端へ消えていく。
笛が鳴った。やけに耳に残る音に眉を顰めると、同じコートに立つみんなも同じ表情をしていた。すごく、辛そうな顔だった。
背中を叩かれて、そんなことをする人なんてかなり限定的だったから、確信を持って振り向いた。なんですか、と文句を言おうとしたのだけれど、いつも見せている快活さが表情にないことを知って、結局口を噤んだ。
彼は何も言わずに、俺の左手を握った。じっとりと汗ばんでいるのはどちらのものとも言えなくて、ぬめる手が滑ってどこかへ行かないよう、強く握り締めた。
そのまま腕を引かれて、ラインの上に立たされる。右には見慣れたあの人が目を見開いて真っ直ぐ前を見ていて、左を見れば、チームメイトがずらりと並んでいる。
誰も彼も俯いている。表情は伺えない。
対する向かいのコートを眺める。あまりよく表情はわからないけれど、どこか浮かれているようにも見えた。
『ありがとうございました!』
左右から大きな声がした。出遅れたことに気付いて、小さな声で「....あざした」なんて言えば、いつもなら揶揄でもしてくるひとは、少しだけ笑って何も言わなかった。
ネットに駆け寄って、ありがとうございました、ありがとうございました。いつも元気すぎるほど元気な声は、今日はやけに小さかった。ひとりひとり目を合わせて、握手とともに礼を交わしていく。芯の強い瞳をした者ばかりだ。
全員と握手を終えれば、キャプテンから集合がかかった。今度は反射的に返事をして、駆け足で監督の周りを囲った。
「おつかれさん」
いつも通りのひとことだった。このあとにはまずサーブのダメ出しから始まって、それから細かいところを指摘されて、それを学校に持ち帰って動きを確認して、それから。
「本当に、よくやった」
いっそ叫び出してしまいそうな形相だ。目に涙を浮かべて、眉間にしわを寄せて、唇を噛み締める。監督のこんなにも人間らしい表情は初めてだった。
「クソっ、いい大人が、泣いてんじゃねぇよっ」
あまりに悲壮感が溢れていて、なんだかこちらまで泣きそうになってくる。
となりを覗きみれば、彼はもう、ぼろぼろと涙をこぼしていた。瞬きをすることもなく、ただ監督の目を見据えながら、悲壮感も哀愁も感じられない、真摯な表情だった。
「俺は、お前らが最強だと思ってる。今でも、だ。絶対に、お前らが弱いから負けたんじゃねぇぞ。それだけは、忘れんな」
監督は最後に、そう言って締め括った。ダメ出しも、注意も、これからの練習についても何も言われなかったことが、俺の中にしこりを残した。おかしいな、と思った。
それから、今までの雰囲気を消しさるように、大きな声で退却を命じる。
一年生が荷物やボールかごを俺が俺がと持ち運んでいった。
三年生の先輩方も、それに続いた。俺はさらにその後ろをついていく。
すれ違いざまに、次の試合のチームが入っていって、大きな声をあげていた。
体育館から廊下に繋がる扉をくぐると、なんだか一気に空気が変わったような気がして、振り返る。
明るすぎるくらいの照明がきらきらと反射して、目を細めた。自分たちのいるこの廊下は、扉の向こう側のきらびやかで熱気溢れる世界とは全くの別物なのだと、そう感じた。
「ねぇ、木兎さん」
「ん、どした」
「また、あのコートに立ちたいです」
「あぁ。立てるよ」
「木兎さんと、みなさんと、立ちたいです」
「....そう、だな」
立てるよ、とは、言ってくれなかった。けれど、同意を示してくれたことが、何より嬉しかった。
「木兎さん。さっきの、最後のポイントの話ですけど」
「ん」
「ブロック、甘かったですね。俺、ストレートちゃんと締め切れてなかったです」
「そうだな」
「それから、2セット目の中盤、木兎さんに上げたトスも低かった」
「ちゃんと打てたけどな、確かにそうだった」
「帰ったら、練習しましょう。それで、今度はストレートで勝って、見返してやりましょう」
「それは、無理だなぁ」
珍しく、気弱な表情だった。どうしてですか、というひとことは、彼のかなしそうな笑顔と、それから止まることを知らない涙に、飲み込んだ。
「泣かないでくださいよ」
「無茶言うなよ」
「なんだか、俺まで泣きたくなる」
「そこはさぁ、俺のためっつか俺らのために泣いてくれよ」
「いやですよ、そんなの」
貴方達が、いなくなってしまうみたいじゃないか。
視界がぼやけてきて、急いで袖で拭った。汗で濡れそぼったシャツじゃ水分は吸い取れなかったようで、ついに左目から、一粒こぼれ落ちてしまった。
「ね、帰って練習しましょ」
「やる気だなぁ、赤葦。これからもその勢いで頑張ってくれよ」
「木兎さん、やめてください」
「やっぱ次期部長は、お前かなー。エースは誰になるか微妙なとこだけど」
「いやだ、やめてくれ」
「お前なら大丈夫だろ、俺らがいなくなっても」
「ねぇ木兎さん、そんな、こと」
「寂しくなるなぁ」
喉がきゅうっと、締め付けられるような感覚。もう少し押し出せばいまにも溢れてしまいそうな、でもそのひと押しがどうしてもできなくて、口を閉じた。
耳を塞いでしまいたいけれど、それをしてしまえばきっと俺は、膝をついて歩けなくなることがわかってしまったから、それはできなかった。
「なぁ赤葦」
「、なん、ですか」
「もっと、バレーやりてぇなぁ」
「やりましょうよ。いつまででも、付き合います」
「ありがとな、赤葦」
「ねぇ、これで終わりみたいに、言わないでください」
「あぁ、そうなんだよな」
これで、おしまいだ。
天井を仰ぐ彼の瞳が、好きだった。琥珀色に澄んでいて、そのなかにゆれる熱情が、好きだった。
その瞳に求められるのが、どうしようもなく、たまらなく好きでしょうがなかった。
あぁそれも、今日で終わりだなんて。
いてもたってもいられなかった。ここが廊下だとか、周りに人が沢山いるだとか、バスをまたせているのだとかそんなものどうでもよくて、木兎さんの名前を呼ぶ。
珍しく惚けた顔でこちらを見るものだから、胸の奥がきゅうきゅう締め付けられた。不覚にも、こんな状況でありながら、ときめいた。
すこし自分より高い位置にある、鍛え上げられた首に腕を回した。このまま絞め殺してしまいたい衝動に駆られないでもないけれど、ぐっと我慢。体を近づけて、密着させる。
顔を上げてみれば、彼の顔がやけに近かった。まっかに充血した目からこぼれ落ちる雫を舐めとる。しょっぱくて、あまかった。
「やめろよ赤葦。おれ、立ち止まっちまいそうだ」
「それはちょっと困ります。なんとか堪えてください。進んでください」
「いまお前が離すって選択肢はねーのな」
「木兎さんが離してくれないでしょう」
「まぁそうなんだけど」
腕に込める力が強くなった。俺も合わせて、首元に顔をうずめるようにした。
このまま時が止まればいいのに、なんて安っぽいフレーズが頭をよぎる。なるほどたしかに、このままでいられるのならどれだけ幸せなことか、想像もつかなかった。
木兎さんは、大きな声をあげて泣いた。ぐずぐずと鼻を鳴らして、もう枯れてしまったんじゃないかと思っていた涙は、まだまだ大きな粒となってこぼれ落ちた。
俺は、おれは、どうしていたのか、覚えていない。きっとおれも、これまでにないくらい大きな声をあげたのだろう。人前でみせることのなかった、涙を流したのだろう。
そうだったらいい、と思った。
そのとき泣いていなかったら、叫んでいなかったら、きっと、俺は一生後悔しただろうから。
木葉先輩に声をかけられて、ようやくからだを離した。離れていくぬくもりがどうしても恋しかった。
荷物を持ってきてくれたらしい一年生に礼を言う。それから、木兎さんの手を取ろうとして、けれど彼の真摯な視線と向き合って、引っ込めた。
背中を押される。突き放すようなその態度に泣きそうになった。
「ありがとう、ございました」
呟いた声が届いたのかは、わからなかった。
けれどきっと、振り返ってはならないのだと、そう思った。
終わったようにも見えますが、前編になります。もう少しだけ、お付き合いください。