大人二次小説(BLGL・二次15禁)

Re: 文スト BL、R18有 乱歩受け中心 太中も ( No.75 )
日時: 2020/05/03 11:28
名前: 皇 翡翠

水底の朝



caution
(時事ネタがうっすらと入ります。コロナウイルスを笑い飛ばせる人向け)


枕元のグラスが少し揺れると、すぐ後に電車の音が来る。夢と泥水のような眠りの間で、それを何度か見た。
 
 夢の中で、私はつめたい川の中にいた。
 
 気管から肺へ、氷のような水がするすると入り込んで、陸へ上がれない体は沈んでいく。こんな苦しい死に方は御免だ。おまけに、水を吸った体は膨張して、見るに耐えない醜悪な姿に成り果てていた。水中で苦しんでいるのも私なら、それを見下ろすのもまた私だ。私の意識は、とうとう体から自由になって踠く様を見下ろしているのに、そこに清々しさは全くない。ただただ、自分の体が水に食われていくのを見るだけだ。遠くで列車の音がする。誰かの悲鳴、血流が耳元で唸っていた。つめたい、つめたい。
 
 その時ふと、右腕に大きな生き物を感じた。生者のあたたかい手が、私の半身を包み込んでいる。

「太宰」
 
 水の向こうで、あるいは、線路の向こうで、誰かの声が呼ぶ。不思議なことに、その声を聞いた途端体を焼き尽くさんとしていた炎が少し弱まった。あるいは、氷漬けにされている感覚が薄らいだのかもしれない。自分の体の感覚なのに、ふわふわと乖離してよくわからない。

 誰かが隣にいる。私はそれを直感した。しかし不安はない。一人きりで溺れ、踠き、身体中を蹂躙される感覚が遠のいて、私はしずかに水底を目指して沈んでいった。

「起きたか」
 
 身体中の血液が逆向きに流れているような、内臓がぐつぐつ煮込まれて私の外殻を内からぐしゃぐしゃにしているような、酷い気分の朝だ。本当に朝なのかは知らないが、目が覚めた時を便宜上朝と呼ぶことにする。瞼越しの世界にはそれらしい光があって、真っ暗闇というわけではないらしい。覚えのある香りがする。体が重い。寒気を感じて、無意識に肢体を縮める。身体中の血管が、真冬の川から水を引いているかのようだ。それでも、私の意識は久方ぶりにちゃんとしていた。私はゆっくりと首を持ち上げて、布団から体が一部でもはみ出さないように注意しながら、上体を起こした。羽毛布団の上に、ずり落ちた毛布が乗っていて、背中には潰れた枕がある。見回した部屋は六畳ほどで、視界の先に開け放したドアがあった。それがそのまま台所に繋がっている。だいぶ奇妙な作りだが、確か、そんな部屋に住んでいると言った男がいたはずだ。

「織田作」
 
 口を開いた瞬間、それを後悔するくらいの乾燥が喉を襲う。数十時間ぶりに空気に触れた声は、かさかさと掠れて萎んでいた。

「水があるぞ」
 
 答え合わせのように現れた織田作が、枕元の机にからグラスを取って手渡してくれる。覚醒と、地獄のような眠りの狭間で何度か見たあの水面だ。

「ここは、君の部屋だよね」
 
 幾分かマシになった声で尋ねる。

「そうだ」

「済まないが織田作、ここにきた記憶がない」

「例の酒場の近くで倒れているのを見つけた。酷い熱だったが、お前が本部の医療室を嫌がるから、ここに連れてきた」

「私が?」

 記憶にない醜態に冷や汗が伝う。

「本部に連れて行こうとしたら、首領は嫌だ、と言っていた」

 正確には、と織田作が付け足す。なるほど、しかしそれで彼が私を連れ帰ったのだとしたら、お人好しが過ぎるというものだ。私は喉が痒くなったのを感じて、慌てて彼から上体を遠ざけた。ゲホゲホと咽せる間も、彼は慌てて顔を逸らしたりしない。

「織田作、君、ニュースを見ただろう。どうやら未遂に終わったようだが、今回の自殺はーー」

 私が些か困惑した調子で切り出すと、彼には珍しく、遮るようにして

「陰性だったぞ」

 と告げた。

「え?」

「巷で流行っている新型ウイルスだが、マフィア内部では検査キットが配布されることになった。昨日の晩に念のため検査したが、陰性だ」

「それじゃあ、私の、免疫力を下げまくって新型ウイルスに罹患しよう自殺は」

「失敗だな」

 織田作が肩を竦める。それに呼応するように再び咳き込むと、織田作は困ったような顔で背中の枕を直してくれた。気が抜けた、とはこのことだろう。確かに私は、体の抵抗力を弱めて街中を行き交う新型ウイルスを存分に取り込まんと徘徊した挙句、春を待つつめたい川で四時間ほど遊泳をしたりした。しかし、この期に及んでごく普通の風邪を引くとは考えていなかったから、すっかり拍子抜けである。流行に飛び乗った自殺計画は、通算百数回目の未遂に終わった。

「そうかあ、失敗か……」

 呟く私の横で、織田作が薬を探している。つまらない風邪の代償に、身体中の臓腑が泥と泥水になったような不快感があるが、陽光の差し込む部屋で織田作の顔を見るとは貴重な経験だ。私たちは大抵、日の沈んだ街で地下に潜っている。

 彼の方は、呟いたきり無口になった私を怪訝に思ったらしい。僅かに眉を潜めて、私の額に触れてきた。久しぶりに感じた他人の体温はひんやりとして、夏の木陰を思い出す。

「まだ高いな」

 骨張った手が、私の前髪をかきあげるようにして温度を確かめている。目上に心地よい重みを感じて、私はうっかり半分ほど目を閉じていた。

「体温計があれば良かったな」

「持っていないのかい」

「お前が起きたら、買いに行こうと思っていた」

「つきっきりにさせてしまったのか、悪いことをしたね」

 織田作は早く治せよ、と言った。私とて、死ねない風邪でいつまでも朦朧としていても苦しいだけだから、素直に頷く。拾ってくれたのが彼で良かったと思う反面、いつまでも彼の寝床を占領しているわけにもいかない。

 そう考えて、ふと疑問が浮かぶ。

「そういえば、私が眠っている間、君はどこで寝ていたんだい?」

「……向こうのカウチに毛布を持っていったんだが」

 織田作が珍しく言い淀む。その時、台所の方からぴいぴいと薬缶が叫ぶ音がした。彼が慌てて駆けていく。

 再び布団の山に潜り込んだ私は、眠りに引きずられそうになる意識の片隅で、先程の夢を思い出していた。誰かが隣にいた、私が縋ったのかもしれない。つめたい川の、水底に足がつかずに、もがき苦しむ夜。しかしその時、救い上げてくれる体温があったはずだ。

「織田作」

 張り上げたわけではないのに、声は台所まで届いたらしい。マグカップと薬缶を持った彼が、居間のドアに心配そうな顔を覗かせる。その髪に、普段は見ない奇妙な寝癖が残っていて、不意にああ、朝だなあと思った。

「なんでもない」

 流し台の上についた小さな窓から、陽光が差し込んでいた。手間に吊された簡易収納の網棚には、片手鍋やフライパンが積まれていて、柔らかな逆光の中に織田作はきょとんと立ち尽くしている。私の唇は、隣にいてくれてありがとう、と動いた。しかし、何かがこそばゆくてそんなことは声に出せない。否、常ならもっとうまく伝えたはずだ。二人で気まずくなるような直球の言葉しか出てこないのは、やはり、風邪が頭まで回っているせいだろう。

 柔らかな陽を溜めた台所で、彼は、しかし「ああ」と答えた。