官能小説(オリジナル18禁小説)
- 甘いヒト
- 日時: 2018/08/12 21:29
- 名前: これこれっと
1
その日、私は綺麗な人を見たのです。
地下鉄の駅、私の向かい側の駅のホームに、確かにその人はいたのです。
深い黒の髪、濁りのない黒の瞳、艶のある黒のスーツ、高級感漂う黒のビジネスバッグ____あの人は、漆黒に彩られていました。
影ではない、明確な存在感を放つ黒です。
ああ、なんて綺麗な人でしょうか。私はまじまじとその人を見つめました。
二番線に電車が参ります____
そんなアナウンスが聞こえて、私は残念でした。電車が来ると、あの人が見えなくなってしまいます。あの綺麗な姿を忘れないように、私はもう一度あの人を見やりました。
するとどうでしょう。
にこり、とあの人が微笑んだのです。
え、と私が思った瞬間に、電車が駅に入ってきました。
今のは、気のせいだったのかもしれません。でも確かにあの人は、私を見たのです。そして、私に微笑みかけたのです。
それが、"彼"との出会いでした。
***
家に帰ると、私はアキちゃんにメールをしました。
『さっき駅で、めっちゃ綺麗な人見たよー。』
するとすぐさまアキちゃんから、電話がかかってきました。
アキちゃんは、私の唯一の友人です。私は人見知りで、口下手で、読書が好きです。スマートフォンのゲームを好む他のクラスメイトとは、なかなか話が合わないのです。
でもアキちゃんは
「ねぇねぇ、何読んでるの?」
「この前教えてくれた小説すっごく面白かった!」
「この作家さんの本、また貸してくれない?」
クラスで席が隣だったこと、アキちゃんが人懐っこいことから、私はすぐに仲良くなれました。何よりアキちゃんは、私の読書の趣味を理解してくれます。
そんなアキちゃんは、私が電話に出ると開口一番
「それって、恋ってやつだよ!」
と言ったのです。
「違うよー、絶対違うから。」
私はすぐさま否定しました。私は誰かと付き合うどころか、異性を好きになったことすらないのです。
そんな私が恋など、ありえないと思っていたのです。
「いーなぁ、私も会いたかったー。」
「今日はアキちゃん、図書委員だったから仕方ないよ。」
明日は一緒に帰ろう、そしたらあの人にも会えるかも、と言って私は電話を切りました。
ごろん、とベッドに寝転ぶと、天井にあの人の姿が浮かんできました。私は、無意識のうちにため息をついていました。綺麗な黒の人の微笑みは、脳裏にしっかりと焼き付いていました。
____恋じゃないよ、アキちゃん。
私は心の中で、一人呟きました。
Page:1
- Re: 甘いヒト ( No.1 )
- 日時: 2018/08/15 20:49
- 名前: これこれっと
2
あの綺麗な人にあった翌日、私は地下鉄の本屋に寄り道をしました。私が大好きな作家の新作が、今日発売されるのです。
店頭にはやはり、新作本がずっしりと積み上げられていました。立ち止まって表紙を眺めている人も、ちらほらと見受けられます。
その作家の新刊は分厚く、もちろんハードカバーです。裏表紙の値段を見ると、2000円でした。
2000円____払えない額ではないのです。しかし今これを買ったら、今月のお小遣いがなくなってしまいます。
私は指で表紙をそっと撫でて、そこを立ち去ろうとしました。
「その本、今日発売なんですね。」
声をかけられました。
深い黒の髪、濁りのない黒の瞳、艶のある黒のスーツ、高級感漂う黒のビジネスバッグ____そう、あの綺麗な人が、そこに立っていました。
私は最初、あの人は私ではなく、別の人に話しかけたのではないかと思いました。しかし回りには、それと思しき人は誰もいませんでした。
「あ、えっと……」
「昨日、駅にいましたよね。」
「はい……」
なんて綺麗な声なんでしょうか。私が口ごもるのを見ても、なんとも思わない様子で、また昨日と同じような微笑みでした。
「あの、私昨日じろじろ見て……すみませんでした……」
私が深く腰を曲げて謝ると、
「謝らないで下さい。僕も笑い返したから、おあいこです。」
またもや綺麗な人から発せられた綺麗な声が、私の耳に心地よく響きました。
「今日は、お時間はありますか?」
「え……」
「僕もこの作家さんが好きなんです。お話でもしませんか?」
***
十分後、私は見知らぬ喫茶店に彼と座っていました。彼はブラックコーヒーを、私はアイスティーを飲みました。____やはり黒の綺麗な人は、ブラックコーヒーもよく似合っていました。
私は夢うつつで、ここに来るまでの道のりも、なんだかよく分かりませんでした。
「本は好きなんですか?」
彼は私に聞きました。
「はい……好きです。すごく。特に最近は____」
それから私は、自分の読書生活について話しました。
江戸川乱歩を最近はよく読むこと、お気に入りの作家は川端康成であること、朝井リョウなど現代小説も好きであること。
彼は微笑みながら、ほどよい相槌を打ち、私の話を耳を傾けてくれました。
「君は、本当に読書が好きなんですね。」
「あ、はい……本を読んでると、落ち着くし……」
私はふと『君』という呼び方に違和感を覚えました。でも、私は彼に自分の名前を教えていません。
「あの、お名前はなんて言うんですか……?」
私はおずおずと聞きました。こう尋ねれば、彼が私の名前についても尋ねるに違いないと思ったのです。
「あ、確かに名前を教えていませんでしたね。僕は、柴野 雅希(しの まさき)って言います。好きに呼んでください。」
彼は、喫茶店のテーブルに、自分の名前の漢字を空書きしてくれました。
紫野 雅希さん____。綺麗なお名前だと、惚れ惚れしました。私は悩んだ末に
「じゃあ、紫野さんって呼びます。」
そう決めました。紫野さんは「うん。」と頷いてから
「君の名前はなんて言うんですか?」
私の思惑通りに、そう尋ねてくれました。
「はい。私の名前は____。」
私は、彼という存在に、魅了されてしまいました。
- Re: 甘いヒト ( No.2 )
- 日時: 2018/08/23 17:30
- 名前: これこれっと
3
不思議な心地でした。喫茶店で話していると、いつのまにか午後6時を回っていました。
「あの……」
私は、ブラックコーヒーのおかわりを頼もうとする紫野さんに、申し訳ない気持ちの中、帰らなくては行けない事を伝えました。
「門限が6時半で……あの、もう帰らなくちゃいけないんです……すみません。」
「ううん。気にしないで。また今日のようにお茶でもしながら話そう。」
優しいお言葉でした。
私はまたもや恍惚を覚えましたが、それに浸っていては門限を過ぎてしまいます。
私はこれだけは言おう、と心に決めていたことを、紫野さんに言いました。
「えっと…連絡先、とか……。」
おこがましい事を聞いているのも承知でしたが、次にまた会いたいと思っていても、連絡先が分からなければ、どうしようもありません。
「ああ、そうだね。連絡先を分かっていないと、またお茶しようなんて、約束も出来なくなってしまう。」
彼は苦笑まじりに黒いスーツのポケットから、光沢のあるハードカバーに包まれた最新のスマートフォンを取り出しました。____やはり黒がお好きなのでしょうか。彼の持ち物は、どれを見ても黒でした。
無事に互いの連絡先が交換出来ると、私は紫野さんにお礼と、お辞儀を何度もして、喫茶店を出ました。
「今日はありがとうございました。本当に、楽しかったです。」
「うん、僕も。また一緒にお茶しよう。図書館に行くのも良いかも。」
彼の綺麗な声の余韻を耳に残しながら、私は帰路につきました。
***
家に帰ると、既に母が帰ってきていました。
「あんた、門限ギリギリだけど、どこ行ってたの?」
私はこの母が嫌いでした。産みの親____ただそれだけです。下品で、口が悪く、お金にしか興味が無い母親です。
紫野さんと話した余韻も、この女のせいで台無しでした。
「乗る電車が1本遅くなっただけ。」
私は端的に答えました。必要以上に話したくないのです。母がだらしなく寝転ぶソファーを横切り、自分の部屋へ行こうとしました。しかし
「ちょっと。」
また話しかけられました。
本当は無視をして、早く部屋に行きたい、そして紫野さんに今日のお礼の連絡をしたい、そう思いました。
でも逆らうことは出来ません。私が逆らうと、あの女は癇癪を起こして、物を投げるのです。そしてその片付けをするのは、私でした。
私が仕方なく立ち止まると、
「あんた、バイトしてるんでしょ。お金、ちょっと貸してくんない?」
そう言って、ネイルの禿げた手を出してきました。
____この親、と思いましたが、私はぐっと堪えて、カバンから財布を出し、3000円を渡しました。
これでもう、今月はほとんど何も買えません。
「気が向いたら返すわ。」
タバコのヤニ臭い匂いをさせながら、またあの女はソファーに戻りました。
本当に、汚らわしい女です。
でも私は、紫野さんのことを考えていると、自然と癒されていきました。
あの美しい漆黒、微笑み____私の支えは、まさに紫野さんだけでした。
Page:1